「父の想い出」と、「一つの服との出会い」について
- INOTORI
- 2021年6月6日
- 読了時間: 4分
更新日:4月13日
こんにちは、リユースショップinotoriの榎本です。
梅雨はどんな服を着たら良いか迷うこの頃ですが、今月6月の第3日曜日は父の日ですね。
私の父は16年前の2005年に他界しましたが、今回はその時に、私が祖業であるクリーニングを継ぐことにした話を書いてみます。 リユースにも通じる話かと思いますので、興味ある方はご一読いただけたら嬉しいです。
父が亡くなる直前まで、私はクリーニングという職業に就く考えはなく、全く違う職業(整体師)に就いていました。
傍目から見てクリーニングという仕事は、関わる時間が長く、内容が細かく、反復作業の繰り返しが多そうで、元々飽きやすい性格の自分では務まらないのでは?と思っていたのです。 なので私が、父が持つ苦悩というものを想像することは、亡くなるその時まではなかったように思います。
年齢差があった父親の死に目に会うのは、きっと早いうちに訪れるだろうとは思ってはいましたが、2005年8月、私がベトナム旅行に行こうと取っていた7日間の休暇が、そのまま父の葬儀の日程に変わりました。

その時は祖業のつるやクリーニングは、まだ店舗数も20以上ある規模感でした。その葬儀で、会社の代表者が亡くなることの大変さが、参列者の数を見て少しはわかりました。
クリーニングの業界規模というのが、業界新聞誌によると、ピークの1992年の8.170億円から年々下がっており、令和2年現在で2.753億円となってますが、亡くなった2005年時点でもかなり業界規模が下がってはいた(4.779億円)ため、当然周辺環境も変わっていたかと思うので。父は悩んでいたのだと思います。
経営をしたことのない無知な人間でも、会社経営が大変そうな気がするのはなんとなくわかります。 亡くなって一年後にようやくクリーニング業入りする決意ができましたが、決めた一番の理由は父の死に目に会ったからで、病室での「眼振」(一般的に走馬灯を見るという、あの瞬間ですね)から、目を閉じた瞬間の顔だけは、いまだに覚えています。
もしかしたらこのあたりの感覚は、映画『おくりびと』を観た方じゃないとわからないのかもしれませんが。
自分が業に入り、その当時の会社の規模感や従業員数、設備や関わる人の多さ、そしてそれに関わる諸問題というのは、完全に自分のキャパを超えたものでしたが、少しずつ規模を縮小しながら事業の内容を濃くしたり、フォローしてくださる方々に恵まれ、マイペースなりに、一つずつクリアしていきました。
ただ一つ、事業縮小のような「引き算の経営(厳密にはただ引くだけの経営ではなく、会社の規模感を小さくしながら事業内容の濃度を上げていくということを目指していました)」というのは最初マイナスの印象が生まれてしまうため、結果が出るまで時間がかかりやすく、評価が低く見られがちなのが難点でした。
一般的には、事業規模を拡大して大きく見せる内容のほうが良しとされているかと思いますのでね。
しかし大変とはいえ、跡取りというのは地盤があるところからスタートするので、地盤を作る必要がない部分は跡取りの最大の利点ではあります(もちろん、維持管理するのも様々な努力が必要ではありますが)。
事業承継してから、私は父から譲り受けた「つるやクリーニング」という服を今まで16年着てきたのだ、と思っています。
ここから話が急展開しますが、服を新たに作る過程を想像します。
材料を揃え、デザイナーがデザインし、裁断して形にします。形になると、今度は販売に力を注ぐため、広告を入れ、人気のモデルさんに着てもらい、販売地を決めます。店子の力も大事です。
新しい服がデビューするのは、とにかくめちゃくちゃ大変ってことですよね。
ではリユース服なら?というと、上記の諸経費を考えると、新品時には必要だったはずの、コストをかなりの範囲で抑えられます。
前使用者の方から渡り歩いてきたので、旅特有の多少の疲れや、時にはダメージも少し残っているかもしれませんが、それこそがリユース服の妙味。
量産されているものでも型番次第では人気のある品なら所有者が離しがたく市場に流通しずらいはずだし、同じ商品でもコンディションによって印象が変わるのもリユースの特徴。
なので、自分に合ったものと出会ったそのときこそが、決断の瞬間なのです。
これが、リユースが「一点もの」と言われる由縁かと思います。
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「きれいを形にして、再生する。」
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